袖振り合うも他生の縁

「袖振り合うも他生の縁」とは、道を歩いていてたまたま袖が触れ合うようなほんの偶然の出会いでさえも、ひょっとしたらそれは前世からの深い縁によるものだ、といった意味合いの言葉だ。

通勤のとき、いつも同じ時刻に同じ人とすれ違ったり、あるいは同じ電車にしばらく乗ることがある。「あ、いつものあの人だ」と思うけれど、もちろん声をかけることなんてない。ないですよね、普通。

それでも毎日すれ違っているうちに、なんとなく親しみを感じてくることがある。「この人はどんな人生を歩んでいる人なんだろう。独身だろうか、家族はいるのか。仕事は何してるんだろう」なんて思いながら、すれ違う1、2秒を過ごすわけだ。そのうちにこっそりと「あだ名」をつけることもあったな。
以下、今までの実例。

れれれのおじさん」:引っ越すまではよくすれ違っていた、赤塚不二夫のマンガに出てきそうなおじさん。

怒りザル」もしくは「ランボー」:帰りの電車でときどき見かけるお兄さん。いつもなんか怒っているように見える。夏場はタンクトップで、筋肉をぴくぴくさせたりシャドーボクシングしたりしてはる。

スナフキン」:朝すれ違う人。女性だけど、スナフキン的風貌。

なんてあだ名をつけて毎日観察するとけっこう楽しい。向こうだってこちらを観察しているかもしれんですけど、それはそれでお互いさまだ。

腐れ縁

「あいつとは腐れ縁でさあ」なんて聞くことがある。縁が腐ってしまうというのはどういうことだろう。昔は「鎖縁」とも書いたそうで、鎖のように切っても切れない関係とか、あるいは輪がつらなって後世まで続いていくような縁を表していたとも言われる。

わしとお前は 焼山葛 うらは切れても 根は切れぬ」と詠んだのは高杉晋作。野焼きをすると、かずらのツルは焼き切れるけれど、根っこはつながって決して切れない、そんなふうな人間関係を表しているようだ。

いつもいろんな人と会っていると、たとえば夫婦やカップルなどで、(さっさと別れた方がいいんじゃないかい)と正直思わないでもない人と話をすることがある。ご本人も「別れたい離れたい」というからなおさら。けど、なかなか離れられないのも、人情なのか慣性の法則なのか、面倒臭さからなのか、やっぱり前世の因縁なのか。
どれが正解かは分かりませんが、そのときどきの気分だけじゃなくって縁や情やしがらみなどである関係やシステム(たとえば家族システム)が保持されるということは、デメリットよりもメリットの方が大きいのではないかしらとこの頃は考えるようになってきた。

腐っても切れないくらいに強い結びつきがあるからこそ、その枠組みや関係の中で愚痴ったり怒ったり拗ねたりできるわけだ。
すぐに切れてしまうような関係だったら、怒りをぶつけることはなかなかできないでしょう。

腐れ縁という言葉は、なかなか別れないカップルだとか、長年連れ添った夫婦だとか、昔からの悪友との関係などに使われる言葉だ。

腐れ縁の反対の言葉ってなんだろう? 良縁? ちゃんとお互いを理解し合い、尊敬して、愛し合っているような関係、のことだろうか? 

内田樹先生が「適当にちゃらちゃらやっている方がうまく機能するように家族は制度設計されている」「家族を理解と共感の上には基礎づけない」と書いていたけれど()、これは意外と真実かもしれない。
お互い理解や共感もしてないけれど(相手のことが本当はよく分かっていないけれど)、なんとなくずーっと関係は続いていて、それはそれなりにうまく機能している、というような関係を「腐れ縁」と呼ぶのだとしたら、「家族」とか「夫婦」なんて、どれだけええ具合に腐れるかがポイントということだな。