『怒らないで生きるには』(アルボムッレ・スマナサーラ、しりあがり寿)
これは模写です。 |
怒らないで生きるには
スリランカの上座部仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老と漫画家のしりあがり寿さんのコラボ作品『怒らないで生きるには』を読んだ。前半は「消えたケーキ」というタイトルのマンガ。ケーキを買いたいと駄々をこねる娘に対する母親の怒りがケーキ屋のマスターに向き、そのマスターの怒りが店員の女性に向き、女性は帰宅して彼氏に怒り…と怒りの連鎖がどんどん大きくなってついには、というストーリーでした。しりあがり画伯のゆるーい感じの絵で怒りを表現されるとかえって怖い。
相手に対して直接言えない怒りが、他の人や対象に向くことって、たしかに普段の生活でもよくあることだ。半分、やつあたりと気づいていながらやめられないこともあるし、やつあたりという自覚すらないことだって多い。
怒ると気分は最悪で、ロクなことはない。わかっているのに私たちは、毎日何度もムッとし、小競り合いをしている。私たちは、怒らないで幸せに生きることができないのだろうか―。そんな疑問を抱いて、漫画界の偉才・しりあがり寿氏が、お釈迦様の本来の教えを説くスマナサーラ師と対面。怒りをめぐる問答が始まった。人はなぜ怒るのか?「正しい怒り」はあるのか?「怒る」と「叱る」の違いは何か?暴力を振るわれたらどうすればよいのか?どんなに苦しいことにも怒らず、運命だと受け入れるべきなのか?本書は、怒らないで幸せに生きる方法が明快にわかる幸福の手引き書である。
表紙にはこんな文章が書いてある。ほんと怒ってもロクなことはないのに、どうしたらいいんでしょうね。なんて思いながら電車でぱらぱら読んでみた。以下、覚書。
怒りとは
自分が期待したように物事がすすまなかったときに人は怒りを感じる。穏やかな人でさえ、怒りの元となる暗い感情が少しずつ蓄積されていく。リミットを超えると怒りとして爆発。ある意味、生きているものはみな怒っている。「生きているかぎり、生命は怒っている」ということが普遍的な真理。仏教では、「無常」(物事が瞬間瞬間変化していくこと)が怒りの原因と考えられているという。
怒るとどうなるの?
怒ると客観的に物事を見ることができなくなる。怒りは猛毒で、私たちの命を脅かす。「正しい怒り」なんてものはない。自分自身の怒りと戦ってもいけない。怒りは伝染するし、連鎖的に拡大していく(マンガで描かれていたのがこの怒りの連鎖でした)。私たちは怒りをコントロールする方法を学ばなければならない。
自我と欲と怒りの関係
自我がある(と思い込んでいる)からこそ私たちは怒る。「自分は正しい」と思っていることには何の根拠もない。「自我というのは錯覚であり、脳の幻覚」だ。自我意識は仮のもので、「自分」という実体があると信じて他人を攻撃するのは間違い。「自分と他人」「敵と味方」といったくだらない区別をなくす。「欲」と「怒り」はコインの表と裏。欲張ると離れていく。
慈しみで怒りをおさめる
「今、怒っているな」と自分に気づけたら、怒りは消える。怒りを正当化せず、我慢して抑えるのでもなく、「観察する」。自分の注意を(怒りの)対象からずらす。後悔ではなく論理的な反省。ユーモアと笑いの活用。自分の話す言葉に気をつける。「ほどほどに怒りを抑える」。智慧と慈悲によって怒りを克服する。慈しみの瞑想。
といった感じの本でした。「自我」とか「私」というのは錯覚だ、脳の幻覚だ、と思えたら確かに小さなことでは腹も立たなくなるだろうけど、それはたいそう難しいことだ。われわれ凡人には「ほどほど」くらいがちょうどいいのかもしれない。
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