カウンセラーは何を見ているか

図書館で借りて読了。

書店で見かけたときは、この表紙がなんかヤダと感じて手に取らなかったのだ。
少女マンガ風の、白衣を着た若い女性が「カウンセラー」ということらしい。

で、大きく足を組んでいて、思わずスカートの中を見てしまうが、その見ている読者をカウンセラーが「分かってるわよ」的な笑みを浮かべて見ている、という構図になっている(たぶん)。

著者や表紙を描いた人がどれくらい意図的なのかは分からないけど(いや、きっと狙っている)、なんとなくはめられた感がする。

読んでみると、開業心理臨床の苦労や覚悟が語られていて、なかなか興味深い本だった。
「共感」や「傾聴」といった、カウンセリング業界では、「当然のこと」と見なされている概念を、ぽいと放り出してみせるあたりも小気味いい。

精神病院での経験や開業心理臨床の話が書かれている第一部と、筆者の入院体験が中心の第二部のつながりが少しまとまらないとの印象も受けるが、いずれも「見る」「見られる」ことに関わる話だった。

「まえがき」では、とある学会の理事会で、出席者(みな、カウンセラーである)たちの多くが目をつむって話を聴いていることについて、次のように書かれている。
目をつむる理由はおそらくこうだろう。話をする人の顔を見て、ときにはうなずきなら話を聞くという日常の人間関係は、「目をつむる」という行為によって転換される。クライエントにしてみれば、自分を見ていない人に向かって一方的に語りかけることになり、そこに非日常的で特権的な関係が生まれる。その関係性こそが心理療法においては必要だとされるのだろう。もう一つ、クライエントの言葉を聞くためには、見えないほうがいいと考えられているのかもしれない。表情を見ることで、語られる言葉の純粋性が失われる。だから専門家は目を閉じて、クライエントの語る音声だけに神経を集中するのだ、と。いずれにしても、私からは見えない世界に沈潜しているようだった。 
このあたり、フロイトが、「一日に何時間ものあいだ患者に見つめられるのは耐えられない」といった理由で、寝椅子を用いるようになったことを連想させる(カウチを使う理由はそれだけではないだろうけど)。

筆者は「目をつむる」「見ない」ことで、「非日常的で特権的な関係が生まれる」と言うが、「見る」ことだって同じように権力と関係しているのではないか。

この本のもう一つのテーマは、「権力」とか「上下」関係だと言ってもいいかもしれない。

若い頃、精神病院に就職したときのエピソードにも、患者の自由を拘束できる「鍵」を手にしたときの「畏れや不安、そしてわずかの恍惚」が描かれている。

また、クライエントとの「高低関係」については、「ワンダウン」の位置を取って「クライエントを仰ぎ見る立場に徹する」という。その一方で、グループではかなり権威的に指示していて、「カリスマ(となること)を拒まない」と断言するあたりも面白い。

本書で繰り返される「医師」への反発も、「見る」「見られる」ことと「権力」をめぐる戦いのように思えてくる。かつて、精神病院の保護室に取り残され、アルコール中毒で幻覚のある男性患者に見られて震えた体験や、蒼白になった表情を医師に見られた屈辱なども同じような文脈でとらえることができるだろう。

なんてことを考えると、この本の表紙は「見る」「見られる」にまつわるパワーゲームを端的に表現しているわけだ。