はじめに:その「声」は本当に“幻”ですか?

「誰かに悪口を言われている気がする」「部屋に誰もいないのに、名前を呼ばれる」——そんな体験があったら、あなたはどうしますか?

多くの人はそれを「幻聴」と呼び、病院へ行くことをすすめるかもしれません。けれども、声が聴こえることは必ずしも“病気の証拠”ではない。そう語る運動があるのをご存じでしょうか。

本記事では、日本におけるヒアリング・ヴォイシズ運動(Hearing Voices Movement)の受容と展開を紹介した中恵真理子氏の論文「日本におけるヒアリング・ヴォイシズ運動の受容」(2021)をもとに、「聴声」という新しい概念の意義とその変遷を読み解いていきます。


「ヒアリング・ヴォイシズ運動」とは?

ヒアリング・ヴォイシズ(以下HV)運動は、1980年代後半にオランダで生まれた精神医療改革のムーブメントです。

精神疾患とされてきた“幻聴”を、異常な症状ではなく「意味のある個人的体験」として捉え直し、当事者の語りを中心に据えようというこの運動は、今では世界各地に広がり、数千のピアサポートグループが活動しています。

日本では、臨床心理学者の佐藤和喜雄氏がこの運動を紹介し、1990年代から「ヒアリング・ヴォイシズ研究会」を中心に地道に広がってきました。


「幻聴」ではなく「聴声」——言葉が変える世界の見方

「幻」とは何か?「声」を中立的に扱うための言葉

佐藤氏は、HV運動を日本に紹介する際、「幻聴(auditory hallucination)」という語ではなく「聴声」という新たな言葉を生み出しました。これは、「声が聴こえる」という現象を、ただの症状や異常としてではなく、文化的・個人的体験として尊重するための翻訳上の工夫でした。

たとえば、「いたこ」や「巫女」が死者の声を聴くという文化的文脈では、誰もそれを“病気”とは呼びません。つまり「聴こえる」こと自体を否定せず、そこにある意味やメッセージに耳を傾けようというのが、HV運動のスタンスです。


「ルビンの盃」にたとえた“見方の転換”

佐藤氏は後に、この運動の意義を「ルビンの盃(Rubin's vase)」という心理学の図像にたとえました。

  • 白い背景に黒い二つの横顔を見れば“人物の顔”に見え、

  • 黒い部分を背景と見れば“盃”が現れる。

つまり、同じ現象でもどのように見るかによって意味はまったく変わる。幻聴(病)と聴声(体験)も、そのように視点を変えることで見え方が変わるというのです。

この喩えにより、HV運動は単なる“脱医療”ではなく、「声」という現象をどう扱うかの選択肢を当事者自身に委ねるという方向へと進化していきました。


当事者の声:「幻聴ではなく『聴声』と呼んでください」

本論文で紹介されているある当事者Tさんの証言は、非常に印象的です。

「声が聴こえているのに、“幻”って言われるのはつらい。聴こえていることを事実として認めてほしい」

この言葉は、従来の医療がどれだけ当事者の体験を“病理”として扱い、個人の語りを排除してきたかを示唆しています。Tさんは「聴声」という言葉に、自らの体験を語るための“居場所”を見出したのです。


「脱医療化」と「向医療化」の同時進行

中恵氏は、本論文の終盤でHV運動の大きな特徴を「脱医療化」と「向医療化」の両立であると分析しています。

  • 「脱医療化」:聴こえること自体を病理化しない。医療に頼らず生きる人もいる。

  • 「向医療化」:声に困っているときは医療を“主体的に”使うという選択もある。

つまり、「病気だから受診する」のではなく、「必要なら医療を使う」という視点の転換が起こっているのです。これは、精神疾患を持つ人々を「サービスの受け手」ではなく、「選択する主体」として尊重する大きな一歩だといえるでしょう。


「聴声」概念が開く、支援の新たなかたち

HV運動が提唱する「聴声」概念は、単なる言い換えではありません。それは、以下のような支援の実践につながります。

  • 幻聴の内容に耳を傾け、対話する

  • 医療だけでなくピアサポートやナラティヴ的なアプローチを取り入れる

  • 「症状をなくす」ことより、「共に生きる」ことを目指す

このように、当事者を“問題を抱えた人”ではなく、“体験を語る主体”として位置づけ直すことで、従来の支援では見えなかった可能性が広がっていくのです。


TED Talks 私の頭の中の声 The voices in my head エレノア・ロングデン Eleanor Longden


まとめ:あなたの“聴こえ”は、あなたのもの

幻聴、聴声、声の体験——それは人によって異なり、一律に「病気」と決めつけることはできません。

ヒアリング・ヴォイシズ運動が教えてくれるのは、「声が聴こえること」そのものよりも、それをどう受け止め、語るかの自由こそが、私たちにとって大切だということ。

「聴こえる人」と「聴こえない人」が共に生きる社会のヒントは、実はそんな“言葉の選び方”から始まっているのかもしれません。