絵本『ぐりとぐら』の冒頭では「この世でいちばんすきなのはお料理すること食べること」と歌われていたけれど、野ねずみや動物たちは通常、料理なんてしない。わざわざ料理して食べるのはヒトくらいである。構造人類学者のレヴィ=ストロースは次のように言う。
わたしは、先住民の哲学において料理が占める真に本質的な場を理解しはじめた。料理は自然から文化への移行を示すのみならず、料理により、料理を通して、人間の条件がそのすべての属性を含めて定義されており、議論の余地なくもっとも自然であると思われる――死ぬことのような――属性ですらそこに含められているのである。レヴィ=ストロース『神話論理 I 生のものと火を通したもの』 

料理するということはどうやら人間の本質に関連した営みらしい。人類が火を使って料理するようになったのは200万年くらい前にさかのぼることができる。火を使うと、食べものはより消化しやすくなるし、摂取カロリーも増える。このためにヒトの脳が大きく進化したという説がある。また、動物は食料を探したり、消化することに多くの時間を費やすが、料理によって消化のための時間は大幅に短縮される。



ゆで玉子をつくることでさえ、非常に進化したメンタルスキルが必要だ。多くの動物は、食べものを見つけたらすぐに食べ始めるが、ヒトは食べものを蓄えて、そして調理する。

Cooking skills may have emerged millions of years ago|BBC NEWS
料理の技術は数百万年前に現れただろう

という記事に紹介された研究では、チンパンジーも調理された食べものの方を好むのだという。ハーバード大学のWarneken博士が行った実験では、チンパンジーに生のまま食べるかそれとも研究者に調理してもらうかを選ばせると、後者を選ぶことが明らかになった。

ではどうしてチンパンジーは料理をしないのだろうか?

Warneken博士によれば、チンパンジーには料理に必要な「社会的スキル」がそなわっていないからだという。料理に社会的スキルが必要?と思われるかもしれない。社会的スキルといっても、テーブルマナーだとか、パーティでの会話術などではない。それは、料理ができあがるまでつまみ食いしないで待っておくことができる、あるいは他の人の食料を盗んだりしないという能力のことだという。

せっかくの食料がいつ盗られるかという状況だったら、手に入るとすぐに口に放り込むのがいちばん安全だろう。お互いを信用することができてはじめて、料理をするゆとりが生まれる。

精神科医の滝川は、人間の性と食の特殊性について次のように書いている。


身体の上に現れる人間の<性>の特殊性は、一定の発情期や繁殖期をもつことなく(成体であれば)いつどこでも生殖行動がたえず可能なところにおかれるだろう。<食>の特殊性は、調理という手段によってほとんどすべての動植物を食餌〔しょくじ〕としうるところに、つまりなんでも食べられるところにあるだろう。このことは私たちの<性>と<食>の行動がいずれも、身体性に規定されつつも、その身体に内在する機構から相対的に大きな自由度をもっていることを意味している。この自由の結果、人間はみずからの<性>と<食>を律するものとして、社会的に(すなわち身体の外に)観念的な規範を作り出して共有し、それに大きく依拠する存在となったといえるかもしれない。滝川一廣「思春期における<性>と<食>」『新しい思春期像と精神療法』金剛出版、2004年、45‐46頁

料理に必要な社会的スキルが、単に食べるというだけでなく、<食>を律する社会的な規範を作っていったのだと思われる。

山内 昶『タブーの謎を解く―食と性の文化学』 ちくま新書 1996
という本も、なぜ古来より人間は食(と性)をめぐってさまざまな「タブー」という奇怪な文化装置を作ったのかを解き明かしていて面白かった。